ここで紹介されている物語は、私が夢の中で見た物語を素材にして作成した物語です。夢を見た後、その夢の意図などを理解し、加筆した内容となってます。

[目次]

⑤笑顔のピンポン玉、それは希望を与える光る宝石

④再開発自由区とビニールジャンパーを着た青年

③不気味なアパートと屋上のピアニスト

②新興都市牛路(ウロ)と小さな貸し事務所のおじいさん

①地方都市美川(ミチョン)と民族衣装を着た人々

⑤笑顔のピンポン玉、それは希望を与える光る宝石

 この物語は3月5日、youtubeで公開された『シリーズ企画「3.11大震災」桑山紀彦 診療内科医2013.3.5』を自宅にて見て、その夜に実際見た夢を素材にして作成した物語です。

 

題目「笑顔のピンポン玉、それは希望を与える光る宝石」

 

 2013年の3月6日の夜、私は不思議な夢を見た。

 

 …ある漁村の民家の倉庫に小さな卓球練習場があった。そこで少女がひとり卓球ベラで遊んでいた。突然、ゴゴーッというけたたましい大きな音とともに倉庫の扉が開き、すごい勢いで水が入ってきた。水は倉庫の室内を2~3回ほど回転して室内にあったものをかき散し、その水の勢いで少女は流され渦巻く水の中へ。水の勢いは更に増し、倉庫全体が壊れ、少女は黒い波打つ海原へ押し出された。水の中で上下左右の感覚のないまま必死にもがき続け、水面に顔を出し体が浮いた状態になった。その時、少女は目の前にぽっかり浮かぶ笑顔のイラストが描かれた一つピンポン玉を見つけた。そして必死でそのピンポン玉をつかみ取った…。

 

 3月7日、私は外国での転勤生活を終え、故郷である福島で復興まちづくりの仕事のために帰国する準備をしていた。3月11日で2年を経過しようとしている東日本大震災。連日のネット新聞やyoutubeなどで震災の特集が組まれ、帰郷準備の合間にその記事や番組を見ていた。昨晩このような不思議な夢を見たのは、たぶんそれらの番組を見たせいもあって見たのだろうとその時は考えていた。

 

 わが故郷一面に桜が咲く4月始めに帰国し、私はある街の復興まちづくりの住民説明会スタッフとして配属された。現地では震災での瓦礫も概ね撤去され、これから具体的なまちづくりを実行する段階にあった。

 5月の始めごろに復興まちづくりの住民説明会が開催されることになった。私は事前に行政との協議を受けて民間のまちづくりコンサルタントが作成した資料に目を通し説明会に参加した。帰国したばかりで現地状況に詳しくなかった私は復興概要の説明を担当し住民への説明を行なったが、始めから質問が飛び交い住民の方から多くのお叱りを受け、復興の遅れに対する住民の不安を肌身で感じ取った。

 次に説明は具体的な復興計画に進み民間コンサルタントの社長さんの話になった。彼は被災して残った建物や船を復興観光のために活用する法案の説明を行なった。しかし、多くの住民から今は観光よりも住む場所や仕事だろう、震災の記憶が蘇ってくるから早く撤去してほしいとの意見があり、再検討ということでこの会は終了した。

 

 車が少ないので、同じ方向へ帰る人はなるべく一つの車にまとまって乗って帰るよう指示されていた。私は会場の後片付けを終え、玄関を出て今日宿泊する民宿方面へと向かう車を探した。後部座席に女性と子供が乗り一席空いている車があったので、その車へと乗ろうとドアを開けた。

 女性と子供だったので被災者の家族だろうと思い丁寧に会釈をして隣の席に座った。シートに座り再度声をかけて挨拶をしようとその女性の顔を見た。

 

 可愛い瞳と顎のほくろ…。

 

 どこかで見た様な記憶のある顔だったが、その記憶を思い出させずに挨拶をした。

「私はこの街の住民説明会のスタッフとして配属されました澤田と申します」

「あ、どうも今日はご苦労さまでした。私、武田充子と申します。よろしくお願いします」

 

 武田充子…“充子”、その名前を聞いて思い出した。

 

 その女性は故郷会津で小学生の時好きだった大島充子だったのだ。

「あれ、充子ちゃん。俺だよ俺。賢司だよ。おぼえてる?」と思わずハイテンションで訊いてしまった。

 彼女は「あ~賢司君。懐かしいわね。おぼえてるわよ」とニッコリ笑って答えてくれた。

「私ね、会津で武田裕紀君と結婚したの。おぼえているでしょ武田君…。でも、ちょっと事情があって裕紀さんの母方の実家がある、こっちに引っ越してきたの……。そしてあの日、裕紀さんね、津波で流されてしまったの………」

 私は彼女が本当にこの津波の遺族であることと、かつての友達であった武田の死を知った。

「た、武田君が…!」突然のことでその言葉しか出なかった。

「そう。彼が亡くなってもう2年を過ぎたわ。でも今はもう大丈夫よ、もう平気なんだから…」

 

 武田とは高校時代、総体連の卓球大会でライバル同士だった。

 私は北高校、武田は北工業高校。彼と始めて会ったのは高校1年の大会の時。笑うとピラニアが歯をむき出したような顔つきになる如何にも恐そうな風貌の不良少年だったが、初試合を終えた時、何故かお互いに引きつけられるものを感じ自然と友達になった。

 下校時に街中で歩道全部を占拠しながら不良仲間らとともに歩く彼にたまに会うことがあった。普段はぶっきらぼうな不良顔をしているが、その時だけは愛嬌のある顔をして目で挨拶をしてくれる。根はいい奴なのだが、周りに仲間の不良達がいるので気を使ってるんだなと思い、私も目で軽く挨拶をしていた。

 真面目な北高生の私と不良の北工業高生。大会のある時だけはお互いによく話をし、普段は街中で目と目で挨拶するぐらいの接点しかない二人だった。

 

「あなた達はライバル同士だったから、裕紀さんから賢司さんのことよく聞いてたわよ」

「そうなんだ…。あの時はお互いの環境が違い過ぎていたけど、たぶん大人になったら良い友達になってたと思うよ。俺は高校卒業して上京しちゃって武田との接点が切れちゃって…それで…いまは…」

 私は顔をなで下ろし、武田の記憶と彼の死をもう一度心の中で噛み締め黙ってしまった。

 

 二人の会話が止まってから、瓦礫が撤去された浜辺の街に車が通りかかった時、隣に座っていた彼女の娘が目をさました。

 私は「充子さん、娘さんのお名前はなんでいうんですか?」と言って娘の方に顔を向けた。

「紗絵よ。紗絵ちゃん。可愛い名前でしょ…この子ね津波に飲まれたんだけど奇跡的に助かったのよ。地元の消防団の人が水に浮かぶ紗絵を見つけて助けてくれたの」

 彼女の娘も津波の被害にあったことを知り、また言葉を詰まらせながら。

「そうなんですか。娘さんも大変な事に。何と言ったらいいか」

 娘はそんな悲惨なことがあったことを忘れているかのように明るく二人の会話を聞いていた。

 そしてふと、私は彼女の娘の顔を正面から見たくなった。

「紗絵ちゃん、こんにちは」と優しく声をかけると、娘はこちら向いた。

 そ、その瞬間、私は目を疑い一瞬息を飲んだ…。

 

 “ピンポン玉をつかみとった、あの夢の中で見た少女!”

 娘の顔が3月6日の夜に見た夢の中の少女とまったく同じだったのだ…。

 

 私は驚きのあまり一瞬あの時見た夢の事を口に出そうとしたが、その内容が死に向き合うような恐ろしいことだったので、その気持ちを抑えながら娘の手元を見た。

 娘は小さな白い手で丸いものを強く握っていた。

 

 それはピンポン玉だった…。

 

「あの…。充子さん、紗絵ちゃん何を握ってるんです?」と小さな声で訊いた。

「あ、この子ったら、ずっとこのピンポン玉を持っているのよ。お父さんなんだって」と彼女は答え、娘の頭を数回撫でた。

 娘は何か納得する様な素振りを見せながらこちらを向いた。

「お父さんがね、紗絵を助けてくれたの。笑顔で助けてくれたのよ…」と言いながら大きく手を伸ばしてピンポン玉を私に見せてくれた。

 ピンポン玉には笑顔のイラストはなかった。いつも手で持っているから消えてしまったのだろうと思いながら、夢で見たことと今目の前で起きている状況に一致しているものがあることを理解した。

 

 ふと、夢で見た笑顔のイラストが娘が記憶している笑顔と同じで、それをピンポン玉に描いてあげれば、娘が喜ぶだろうと思った。

 しかし、ピンポン玉に直接笑顔を描いて、その笑顔が娘が記憶している笑顔と違っていれば、大切に持っているものを誤って汚してしまうことになりかねない。私は説明会の資料の裏紙で夢で見たときの笑顔を描き始めた。

 揺れる車の中であの時見た夢の記憶を辿りながら、ピラニアが歯をむき出したような笑顔のイラストを書き上げ、娘に見せた

「紗絵ちゃん、ピンポン玉に笑顔がなかったけど、こんな感じだったかな~?」

「あ~、おじちゃん凄い。おんなじだよ。ねぇねぇ、お母さん、お父さんにそっくりだよ」

「そうなの?紗絵ちゃん。賢司さん、すごいよね…」

 私は二人の言葉を聞いて、

「いやいや、絵を描くのは下手ではないし、裕紀君の顔って特徴あるんじゃないですか」

といい、3月6日の夜に私が見た夢とは、天国にいる裕紀が私に伝えてきたメッセージであることを確信した。裕紀が私に、娘のためにピンポン玉に笑顔を描いてほしいと。

「じゃ~、この絵、ピンポン玉に描いてあげるね?いいかな紗絵ちゃん」

「いいよ~、お願いお願い~」娘は喜びながら元気に答えてくれた。

 海沿いの眺めの良い所で車を止めてもらい、私はさっき資料の裏紙に描いたものと同じ笑顔をピンポン玉に描き娘に渡した。

 

「あ、そう。賢司さんが泊まる民宿の手前に私の住む仮設住宅があるの。そこで裕紀さんのお線香をあげていったらいかがですか?」

「そうですね。親友だから、それは当然行きますよ。武田君に会いに」

 車が仮設住宅に到着し、充子とその娘の住む部屋へと入った。仮設住宅は思ったより狭かったが明るい雰囲気だった。

 部屋の片隅に小さな仏壇がありその前に彼女と私が座った。仏壇にはむすっとした顔の武田の写真があった。

「裕紀さん、写真を撮られるのが大嫌いでね、こんな顔の写真しか残ってなかったのよ」

「武田君らしいな。むすっとしてるよ。本当は愛嬌のあるやつなのに」

 私たち二人は小さな仏壇に線香をあげ、目を閉じて合掌をした。

 

 その時、突然。

 

「あ~お父さん笑ってる~」という大きくて無邪気な娘の声が。

 二人は仏壇を見つめた。

 そこにはさっき描いた笑顔のピンポン玉が。私たちが合掌している間、娘が武田の写真の前に笑顔のピンポン玉を置いていたのだ。

 その突然の出来事に、さっきまで平穏だった充子が大きく息を吐きながら涙を流し泣き始めた。

「ほんと……笑ってる、笑ってるお父さんの顔…お父さん…お父さん…」

「お父さん、紗絵のこと“笑顔”でずっと見守ってあげたんだよね、お父さん……」といいながら娘を強く抱きしめた。

 娘は「うん、そうだよお。笑顔の父さんがいつもいるから紗絵は大丈夫だよ、お母さん。だから泣かないで」と晴れやかな声をだし、泣きじゃくる母親の顔を手で撫でた。

 それからずっと充子は娘を抱きしめながら泣いていたが、しきりに声をかける娘の明るい言葉に励まされ平穏を取り戻した。

 

 紗絵ちゃんは、被災したときからずっとピンポン玉を握りしめ辛い過去に向かいあってきたのだと思った。深夜寝ているときに夢の中で恐ろしい恐怖にかられた時もあっただろうが、ピンポン玉に描いてあった父親の笑顔を思い出しながら、その微笑みの中で抱きしめられていたのだ。父親の笑顔は暖かい命の光るピンポン玉の宝石となって紗絵ちゃんを見守り、未来へ向かって力強く生きていく意思を与えていた。だから、紗絵ちゃんは元気で晴れやかで前向きであったのだろう。そして、充子さんも、本当は黙って隠していた後ろ向きの気持ちをこれを期に全て吐き出し、笑顔のピンポン玉から湧き出る夫からの愛を受け止めながら、希望を持って娘とともに前向きに生きていくだろう…。

 

おわり

 

 今、被災地の復興がなかな進んでいない。辛い過去を忘れようと心が前向きになっていない被災者が多くいると聞いている。そのような中で被災地の方々がしっかりと過去と現実にもう一度向き合い、それを自分のものとして認め、未来が見える光る宝石を見つけだし、次の時代を担う子供達に希望を与えながら、被災地の方々全員が未来へ向かって力強く生きていって欲しいと願っています。また、政府関係者の方々も被災者ひとり一人を支援できる取り組みを充実させ、一早い復興のために変えるべき行政システムは早く改革するとともに、youtube動画『シリーズ企画「3.11大震災」の桑山紀彦さんが活動しているような心のケアを中心とした支援を広めていって頂きたいと思っています。

 

 最後に、今もなお多くの被災者が不安な生活をしている中で被災地の現状をよく知らずに、不思議な夢を見たという事だけで勝手にこのような物語を公表したことをお許し願いたいと思います。実は私は今、住んでいる韓国を離れ故郷福島に帰ろうかと悩んでいる状況にあります。そんなことからこのような夢を見てしまったと思ってます。

 読んでくださった皆様に感謝しております。2年前の今日、東日本大震災で亡くなられた人たちにお祈りを捧げ、この物語を終わりにしたいと思います。2013年3月11日 澤田賢司

 

※お時間のある方は、この物語のエンディング曲として選曲した歌を聞いてください。

私が好きな韓国人アーティスト-エピトンプロジェクトのアルバム「遺失物保管所」からシム・ギュソンが歌う曲「今日」を選びました。震災のあった浜辺で紗絵ちゃんを抱きながら遠くを見つめる充子をイメージしながら聞いてください。この曲の内容は、同じ時間と空間を共にし、同じ方向と同じ未来を夢見た男女が別れ、その無念と葛藤の女の思いを歌にした内容となってます。

 

④再開発自由区とビニールジャンパーを着た青年

 会社の同僚とともに電車に乗り、とある古い街へと向かった。

最寄りの駅に到着して少し北の方へ歩いて行くと小さな河川があり、そこには古い橋がかかっていた。橋を渡り川の中間あたりにくると、眺望が開け目的地である古い街が見えてきた。その街はものけの空となった家が立ち並び、ひとけのない暗い街だった。

 私たちがこの街へと訪れた理由は、本日“ドキュメント再開発自由区”と言う実にユニークな街壊しイベントが行なわれているとの情報を得たからである。

 

 橋を降りて、二階建ての工事詰め所のような建物の前を通り、街の中へと入っていった。街中の家々は窓や扉が全て取りさられ疲れ果てた街の表情を見せていた。少し通りを歩いていくと中学校のグランドがあり、そこには20数人の人が集まっていて、“爆弾遊び”と言うイベントが行なわれていた。このイベントは、イベント係員が小さな大砲を上に向けて立ち爆弾をあげ、参加者がその爆弾を避けながら街中を逃げ回るというものであった。参加者は皆不安げな表情をしていたが、そのイベントは実行されていた。

会場の近くでインタビューが行なわれていた。インタビューを受けていたのは、このイベントで有名となったイケメン青年。まるで有名ゲーマーのようにファンや女性達が彼の周りを取り囲んでいた。

一方、街の通りでは“爆走破壊レース”というイベントが行なわれていた。車二台が通れるような狭い通りで車が爆走。取り壊しを待つ街なので、車が家や電柱にぶつかってもおかまいなしのようだ…。

 

 先ほど通りかかった二階建ての工事詰め所で昼食の準備ができたということで、そこへと向かった。到着すると係員から階段を登り屋上で昼食を食べるよう指示されたので階段を登り始めた。とても狭くガタツイている。恐る恐る登りつめると2畳ほどの小さな屋上があった。

屋上に足をかけたとたん、突然、階段と屋上が崩れた落ちた。

私は屋上とともに落ちてしまったが、幸いにも1階の柔な古い屋根の上に落ちたので軽症ですんだ。頭や体についた埃を振り払い、崩れた階段と屋上の破片をよく見ると、発砲スチロールでできていた。

 別の場所で昼飯を食べ終えトイレで用をたし、工事詰め所内を歩いていると、ある事務室で工事入札が行なわれていた。その入札は、取り壊し後に新しくできる街で使用されるベンチや公園器具の入札で、現場監督官と業者とでベンチの種類の質疑が行なわれていた。

 

 工事詰め所の裏へと行き一服していると、不満げな表情をした薄いビニールジャンパーを着た青年がいた。彼はイベントの発案者だった。ひとこと声をかけると、彼は苛つきながらこう答えた。

“今の都市の稠密は、人々の反社会的適応や精神病理を引き起こす原因となってますよね。このイベントは人間の手による街壊しという行為を通して、本来人間が住むべき街や人間のコミュニティーとは何かを再考するために考えたんです。しかし、その目的を越えて、イベント主催者によって祭りのように盛り上がってしまった。街には思い出がいっぱい詰まっている、それを住んでいる青年や住民自らが意図的に壊すことに意義があったのだが、イベントの宣伝で他の場所に住む人々が楽しむゲーム場になってしまいました。”

 

 私はその話を聴いてある民俗学者の本に書かれている一文を思い出し、“壊す”という人間本来が持つ怪物性を街壊しという行為を通して、街に住む“しがらみ(コミュニティーの崩壊のやるせなさ、孤独)”を住民自らが漂白し(或は汚し)、新しい街のコミュニティーの考えを作りたかった彼の意図を理解した。

“生命はもともと怪物的なところを持っているのに、人間の世界はますます自分の中に棲む怪物を抹殺する方向に向かっている。それでは人間の中に潜む怪物性は恐ろしい犯罪にでも走るしか、自分を表現する道を断たれてしまう。民俗学者N・S氏”

 

 彼が着ているビニールジャンパーはこの街壊しのために自ら作ったものだった。彼との会話を終え、私と同行した同僚はこの出会いの記念として彼が着ているものと同じビニールジャンパーを頂き、イベントを終えた古い街の残響を聴きながら帰路についた。

 

 このイベントを記事にしてから数日後、ある方から記事の意味が理解できないとの質問が来たので、分かりやすい例えをビニールジャンパーを着た青年に聞いてみた。彼はこう言ってきた。

 

“このイベントは二つの意図があるんです。一つ目は公開ウォールペイントの巨大版と考えればいいですよ。横浜とか渋谷に不良達が隠れて描いたウォールペイントがあるんじゃないですか。それを合法的にイベント的にやる。若い不良たちの不満や表現をそこで合法的にガス抜きさせる。遊びたいとだだをこねる子供達を砂場で自由に遊ばせるのと同じこと。もう一つは、日本で地震があったじゃないですか。あの災害で住んでいる街が全てなくなり、本来人間が集まって街ができて、その土地で生きるという意味を再考していますよね。コミュニティーとか仕事とか、これからの自分の将来とか。街が無惨に無くなるということは、国家権力や戦争か災害でしか起きないですよね。でもそれを自らすることによって、街で住むということの本当の意味を発見できるかもしれないと思ったんですよ。これは芸術なんですよ。時間と空間の秩序やしがらみを全て解放し「原初(げんしょ)の生」を見つけ出す芸術。わかったかな? 薄いビニールジャンパーを着た青年より”。

③不気味なアパートと屋上のピアニスト

 韓国南東部の中核都市にある古い高層アパートに日本人ピアニストが住み、本日そのピアニストが小さなピアノ公演を開催するという情報を得たので取材をしに行く事にした。ソウル駅から汽車に乗って数時間、そのアパートのある駅に到着。当初は同僚のJ君と二人で行く予定であったが、彼がちょっと遅れてくるというので、彼を待ってる間にそのアパート周辺を散策した。

 このアパートは新しいマンションや雑居ビルが建ち並ぶ駅前大通りのすぐ裏にあった。70年代に建てられた古い10階建てのアパートで、通りに面した5階建ての雑居ビルの後ろにその黒くすすけた後ろ姿を見せていた。1階部に行くと、かつて賑わいを見せていたような小さな商店街があったが、今はちょっとした廃墟のような雰囲気になっていた。

 

そうこうしているうちに、J君から電話がきた。彼が駅に着いたようなので、駅まで迎えに行った。

 

 開演時間までまだだいぶ時間があるので、J君とアパートが見える喫茶店で時間をつぶすことにした。コーヒーを飲みながら窓越に古いアパートの裏側をぼんやり見ているとハッとするような思わぬ光景を目にした。アパートに住んでいる子供達が崩れかけていかにも危険な非常階段を楽しそうに上り下りしたり、壁から突き出たガラス窓や煙突などを使ってジャングルジムの様な遊びを楽しんでいた。その様相はまるでかつてタルトンネ(貧困街)の階段で自由に遊ぶ子供達のようであった

 ピアノの音が聞こえてきた。公演の準備が始まったようだ。喫茶店を出てアパート一階の商店街広場に着くと、今回のピアノ公演のイベントを聞きつけた近くに住む子供達やその家族が集まっていた。屋台も何軒かでていて小さいながらイベントの雰囲気があった。屋台では近くの教会の協力で餅が売られていた。餅は大袋に詰められて売られていたので、私は店主の牧師さんにこう提案して言葉をかけた。

牧師さん、この餅を子供達に楽しく配る方法がありまよ。子供達に目をつぶるようにしてもらって、手で花のつぼみを作るようにしてください。そして、目をつぶった子供達のつぼみの中にこの餅をひとつづついれてください。これは、日本の幼稚園のオヤツの時間にやる楽しいイベントなんで試してくださいね。 

牧師が言われた通りにやってみると、子供達は思いもよらぬオヤツイベントにおおいに喜んでくれた。

 

 演奏会が始まるまで、まだ時間があったので、どう時間をつぶしたらよいか、ピアニストに聞いた。

でしたら、部屋に子供達がいるのでちょっと見ててまらえませんか

とピアニストが答えたので、私たちは彼女の部屋へと向かった。ピアニストの子供達はまだこの地域の子供達になれてないようだ。部屋の中では可愛い姉妹がソファーの上で遊んでいた。私たちは一緒遊んで公演開始時間まで時間をつぶした。

 

ピアノ公演は大盛況に終わった。

 

 楽しい時間を頂いた感謝の気持ちで、公演後の会話もはずみ、私がなぜこのアパートに住むようになったかを聞いてみた。ピアニストは、この建物がちょっと恐いけどガウディっぽい不思議な建物なんで住み着き、晴れた夕暮れ時には、いつもアパートの屋上でピアノの練習していると答え、最後にこう言ってきた。

 

“今の時代、コンピューターでいろんなコミュニケーションができるんじゃないですか。フェイスブックなどのSNSとか…。そんなバーチャルなコミュニケーションに飽き飽きしちゃった時、ちょうどこのアパートを発見して、あっこれだ!と思ったんですよ。SNSっていい面もありますが、結局他人の行為を覗くメディアとして娯楽化しちゃって、いまの都市も同じですよね、監視カメラで他人の行為を覗いちゃってるし。極端な話だけど。このアパートの住民は全て自分を曝け出して生活してるんですよ。そんな人達が集まって住んでいる。上も下もなく、みんなで裸のコミュニケーション、銭湯のようなアパートって言ったら良いのかな。屋上でピアノの練習しているとみんな集まってきて、毎日が小さなコンサート。リアルなコミュニケーションが魅力なんです。”

 

 ピアニストと別れてから、通りの反対側へ行き、再度彼女の住むアパートの表側をじっくりと見た。

 

 平坦で退屈な現実世界の都市景観に穴を開けるような、複雑奇異な建築構造。ひとつ一つ張り出したガラス窓が数々の人格的眼となって遠くを眺めているようだった。窓ガラスを通して住民の生活感や温度感を外に出してしまった人格的建築物と言うべきこのアパートは、不思議な動物の顔を外に出したガウディの建築作品に通じる不気味さを持っていた。人間は自分の心の中にある恥ずかしい部分を隠してしまう。しかし、このアパート住民はそれをあえてさらけ出している。数々の人格的眼であるガラス窓からの視線が複雑に自分の心にまとわりつくような感覚を覚えたとき、彼女のあっこれだ!と感じた理由がわかった気がした。

 

②新興都市牛路(ウロ)と小さな貸し事務所のおじいさん

 私はある地方都市の設計の仕事を請け負いカメラなど必要な資料を準備して現地調査に出かけた。

 ソウルで地下鉄に乗り、とある駅で地方線に乗り換え、山間の長いトンネルを抜けると、小さな新興都市に電車が到着した。シンプルで簡素ではあるが真新しい駅舎が私を出迎えてくれた。

 電車から降りて改札口をぬけ駅の通路を歩いていると、ふと本当にここが仕事を請け負った場所がある所なのか不安になった。結構長い時間電車に乗り、仕事を請け負う場所の最寄りの駅名を忘れていまっていたからである。周りを見渡すと、駅の改札口の上の壁に、この都市を紹介する古い絵と観光案内の写真がはってあった。古い絵には何やら牛を引く人々が描かれていて、達筆な筆字でこの地の地名が書いてあった。しかし、その字が達筆すぎて、とても読めるような字ではなかった。目の前を通りかかる若い人を見つけ尋ねてみた。ここは、なんて名の駅ですか?あれ、通じない。あせっていた私は日本語できいてしまった。あ、そうだそうだ、ここは韓国だ。若い人は牛路(ウロ)駅だと答えた。なるほど、だから駅の改札口の上の壁に牛を引く人々が描かれていたんだと思い返した。

 さて、駅の外にでると新興都市ならではの光景が見えた。新しい駅舎がポツンとあるだけで周りには何もない。韓国の新興都市に良くある風景だ。駅舎の端に現代的な小さなスーパーマーケットがあったので入ってみた。地方なんで物価が安い、店では海産物が多く売られていた。

 ここはできたばかりの都市でホテルがなかったので、小さな貸し事務所の一室を宿泊する場所として予約していた。その貸し事務所に到着すると70代のおじさんが出て来て、部屋の鍵を渡してくれた。

 部屋に入り荷物を整理し少し休息を取った後、カメラだけを持ち外に出ようとした。そのとき、おじさんが、貴方の会社と会員契約をするので会社の名前と住所を教えてくださいと声をかけてきた。まだ個人で始めたばかりの小さな設計会社で登録を済ましてなかったのでいや~結構ですよと私は答えた。おじさんは、ケンチャナヨ、ケンチャナヨ(大丈夫だから、大丈夫)と言って、何回言ってもきいてくれないうまく話を濁してその場の離れた。

 南京錠で部屋の鍵を閉め外に出てみた。外は夕暮れ時だった。街をはずれて少し歩いていくと野草の生い茂る小高い高台が見えてきたのでそこまで行くことにした。頂上に差しかかる手前で、突然強い光が目の中に入ってきた。そして遠方には夕日にキラキラと輝く海が見えた。

①地方都市美川(ミチョン)と民族衣装を着た人々

 私は、韓国で生活し始めてからとあるソウル市北西部郊外の美川(ミチョン)と言う街に引っ越してきた。引っ越した家はアパートではなく、なぜか大部屋のある大きな家だった。

 

 夕方ぐらいに引越しの整理が終わり、その時間が丁度夕食の始まる時間だったので、大部屋では、夕食の支度が始まっていた。支度をしている人々は中国語を喋っていた、彼らはたぶん中国の朝鮮族の人々なんだろう。

 

 夕食が終わり大部屋では知人もなくみんな韓国人なので、人見知り状態だった私は自分の部屋に戻り眠りについた。……(夢:自分は超高層マンションの最上階に近い階に住んでいた。そこからの風景は、このマンションと同じ高さの建物しか見えなく、つめたく、さびしい風景だった。下を見たがあまりにも視点が高いのでめまいがした)……

 

はっとして起きたら、自分の布団の脇で、1人おばちゃんが布団もかけずに寝ていた。びっくりした私は大声を上げてしまい、その声でおばちゃんも起きてしましった。

「あ~ 寒い、寒い、ちょっと布団の中に入れて~」と言って、そのおばちゃんは私の布団の中に入ってきた。

「あれ、日本語喋れるんだ」

「あ、わたし。ん、私は日本人でね、小さいとき朝鮮戦争のどたばたで孤児になり、ここで働いているんだよ」

少しの間おばあちゃんと会話を楽しんでいると。

「チンチャ、チュプタ(ほんと、さむいね~)」

言って、他の韓国人も布団の中に入ってきた。ここの住民は、なんかみんな人懐っこい人々だ。

 

 そうこうしているうちに、部屋の脇の廊下がなにやら賑やかになってきた。私の部屋のドアの前を、カラフルで土着的な民族衣装を着た人々が、私に挨拶しながら通りすぎていく。

「さあ~さあ、君達早く準備しないと~」と彼らは言っていた。

民族衣装を着た人々の一行が部屋を出て街に行くというので後ろに着いていった。

細い路地を通りかかったとき、さっきのおばちゃんが私に話かけてきた。

「美川(ミチョン)って、風の成る風車(かざぐるま)の街で有名な場所なんですよ。」

私はその街のポスターをどこかで見たこのがあるので、「あ~。どっかのポスターで見ましたよ。小さな風車が町中に散りばめられているあの街ですね。」と答えた。

そのような会話をしながら、私と彼らは大きな商店街の中に入っていった。

 

 夢から覚めて思った。夢で見た家はアジールだったのだろうと。彼ら住民は、貧困、争い、人間関係など、なにか事情があって、ひとつの大きな家で共同生活をしているようだった。しかし、そうした悲しみや矛盾を越えて、彼ら独自の文化やコミュニティーを作っていた。独特な民族衣装を着て興行の準備をしている彼らの姿は、生き生きしており、人間味のある温かい感性を持っていた。 

 夢の中で出会った人間味のある温かさと、その中で見た冷たい都市生活風景のコントラストが非常に印象的な夢だった。